昭和43年2月2日 夜の御理解     (末永信太郎)   №43-017




 今日、この、古賀先生から手紙、お母さんと一緒に居合わしたように一緒に参りました。先生のこの手紙をちょと読んで見ましょうね。拝啓、親先生にはお変わりはありませんか。日々、朝早くより御神勤のこと有り難うございます。長い間ご無沙汰致しました。昨年末より血痰が止まらず、現在もまだ少し出ていますが、こんな長いのは初めてです。そういうわけで、失礼致しておりました。
 けれども、それ以外のところは順調で、体重も43キロになりました。椛目にいた時は、37キロでしたから、6キロ増えたわけです。それから、もう一つご心配かけねばならんことになりました。母が昨日より、共済病院というところに2週間の予定で入院いたします。
 手の指が痛い痛いと言うておりましたが、診断の結果、脱疽という病気だそうです。母の病気は、自分のことよりも辛い気がします。誰かに、何かにお詫びをしたいような気になりますが、お昼に夢を見ました。それは、99遍負けても、100編目に勝てばいいとですよ、と言われている夢でした。
 それを言って下さっているのが、親先生でした。目が覚めてから、もう、このことだけがはっきりしており、これは、有り難い夢を見させてもらったなあ、と思いました。負けて、まあ、負けて覚えど相撲かな。ね。負けて覚える相撲かな、という言葉がありますが、負けておるその中から、勝ち手を覚えて行けということだろうと思います。どうぞ、このことが先々大みかげとなって参りますようにと、念願して止みません。正月からはじめの初だよりだから、俳句のことでも書かせてもらおうと予定でしたが、お願いの(厚?)だよりになりました。どうか、よろしくお願い申し上げます。
 暖かくなりましたら、参拝させて頂くことを楽しみにしています。先生もどうかお体を大切になさって下さいませ。親奥様と若先生をはじめ、教会の皆々様へよろしくお伝え下さい。(がんちょうや、こらあ、教会で教会で?二日もせん、      きた走る?)。これは、体験の作です。そして、いわば、私の憧れの理想を込めたものとも言えると思います。ご笑覧下さい、と。本当、親先生(     )と。
 まあ、本当に難儀をしておるわけです。親一人、子一人の中に。しかも、宗教界修行の、熱心にキリストの教会ですから、厳しい修行の中から、自分が病院に入らなければならないことになり、かてて加えて、また、母が入院せにゃんわけです。本当にあの、もう、自分が方が入院したが良いとか言うております。
 私は、ここんところを家内と二人で読ませて頂いてから、あの、本当にあの、もらい泣きしました。ね。親一人、子一人の中に、本当にあの、親が子を思う思いも切ですけれども、子がまた親を思う思いも切です。もう、自分のもう、そういうような大変な状態でありながら、まだ、自分が入院しとるがよかと言うとるんです。そういう難儀の中にです、今朝方からお夢を頂いたと、こう言うております。ね。
 99編負けても、100編目に勝てばよかとですよち。それが、親先生の声でしたと、こう言う。ね。私はここんところを本当に頂きたいと思うですね。これは、まさしくここの御理解です。私は、古賀先生がお届けは、もう毎日、やっぱりお届けさせてもらうんですけれども。
 そういう、一つの私の祈りの圏内にやはり親子の難儀もある訳でございますけれども。それが今度、例えば、布教にでも出た時のそれが、布教させてもらうという、御取次させてもらう、一つの生きた教材としてですね、私ども親子はこういう難儀なところを通りました。けれども、こういう風にしておかげを頂きましたという、生きた体験を頂いて行きよる、まあ、素晴らしい体験を頂いて行きよる。
 言うならば、九に九が重なる。いわゆる、99と言やあ、苦と苦が重なると書いてある。もう、本当に苦情苦が重なる、ここでへこたれちゃならんです。百遍目に勝ちゃいいじゃないか、とこう厳しく教えておられますですね、神様が。その百遍、そこの、もう後ひと押しというところを、だから、いかに大事にしなければならないかということが分かる。ところが、その、後ひと押しというところに(   )、後ひと押しというところで、グズグズしたり楽な方を取ったりするところにです、いつまでも苦と苦が続くんです。
 ね、ここんところがですね、やはり、乗り越えなきゃいけん、辛抱し抜かなきゃいかん。でなかったら、100にはなれません。百遍目に勝てば良いちゅうのは、それなんだ。ね。今日、久留米の笠さんが朝お参りさせて頂いておられる。先生、今朝方からお夢を頂きました。どういうお夢じゃったですかち言ったら、このぐらいばかりの(しきりを、   かかりぐらいのしきりを持っておられる?)ね。
 そして、それに、こうやって、その、綿のような(ばかけ?)、そういう、先生、でしたと、こう言うのである。ね。綿と言やあ、フワッとした柔い物でしょうね。ですから、現在の例えば、んなら、笠さんの場合は(りっきん係り?)ぐらいな苦労ならですね、こう、(ふんどうをじっきん?)ここでやりさえすりゃ、ね、平生が保てるわけでしょう。そりゃ、信心のなか時なら、(10金?)ぐらいなもんで、(       )。ね。ところが、金光様金光様と、御取次を頂かせてもろうて、十金のものが十金んところの(  )のとこにありゃ、この、(下のタオル?)というものは、いつもこう、平生になっておる。
 これは、私が二十年ぐらい前に頂いた御理解でもありますね。例えば、金光様の先生でもするからには、どういう、その、難儀な問題を持って来るか分からん。それこそ、百金も二百金もの、言うなら時、先生も一緒に、はあ、そりゃどうするのち言うたら、もうお終いです。ね。
 例えば、百金の(ごしんぎ?)のものを持って来ましてもです、ね、例えば、その、神様(ぽんとのその、ふんどう?)ていうものをです、ね、百金なら百金んとこ、千金なら千金んとこにやりさえすりゃ、平生が保てれるだけの力を頂いとかにゃいけん。ね。皆さんでもそうですよ。ね。
 さあ、何かという時に、その、慌ててはならんと教祖が仰るが、慌てんで済むのは、金光様と念ずると、いわゆる百金のものが百金の眠るところに、(ふんどうを?)こう動かしさえすりゃ、もう、平生が持つ。それを動かさんなら、(     )。そういうことじゃつまらん。ね。
 まだ、ここの若先生が善導寺の修行に行く前でした。まあ、一生懸命、毎日、朝参りをしておりました、教会に。そん時に、その、いつも神様に、その、生きた神様を頂きたいわけなんですね。そうして、そのお願いをして休ませて頂いたある朝、頂いたお知らせがです、この御結界のこの玉串案が、もうえらい大きな玉串、厚い。そして、このお幣がですね、斜めにこうやって置いてある。しかも、ここに彫りこんである、この方、玉串案に。そういうお知らせを頂いた。
 なるほど、取次者としては、さもなからなければならない。そう在らなければならないことを、もう、いわば取次者を目指させてもらう玉子の若先生の、いわゆる、に神様がそう教えておられる。ね。信者がどういう難儀な問題を持って来るか分からん、ここには。だから、この玉串案が弱かったら、ここに千金なものでも置いたら、今度はへこんでしもうたり、折れてしまう。
 ね、これが頑丈でなかにゃならん、取次者はそういう力を持たなきゃいけない。それにはです、若先生じゃないですけれども、99負けて、負けてばっかりじゃつまらん。いよいよ百遍、いよいよちゅうところを抜けきらなければ。あの人は、ここにある時からそげんでしたもん。もうひと押しというところが出けなかったんです。ね。本当に歯痒いことでした。ね。
 せっかくのことじゃないか、ね、生きた教材を頂いておるのを教材にしきらない、というような感じです。このお塀が斜めに向いておるということは、お供えなんか問題にはするなちゅうことです。こうしたとがお供え。ね。お供えなんかは問題にするな、お初穂なんかあげてんあげんなんよか。問題は助ける力。助かりたいと言うてくる信者に助けられる力を取次者は頂かにゃいけない、というようなお知らせを頂いて。ね。十金(    )じゃでけん。それこそ、百金でも千金でもかかるだけの、やはり、(ちきり?)にこちらがならにゃいけん。ね。金光様と御取次を頂いて、金光様とここに唱えた途端にです、もう、心が例えば波だっておっても平生になるぐらいなおかげを頂いておかなければ、御取次は出けない。まあ、これは取次者だけのことじゃありませんよね。皆もそういうおかげを頂かにゃいかんです。
 日頃信心しておって、カーッとする、頭に来た。ね。そして、おかげを落とす。もう、カーッとする前に、金光様。ね。金光様と唱えたらです、本当に、それが十金か五十金のものでありましてもです、その問題を問題としないで、平生で受けられるようなおかげを頂くために、日頃の稽古しとかにゃいかんのですよ。
 今、前にそこの合楽の駐在所の奥さんが毎朝参って来ます。元、(きつか?)の(はすつ所)におられたんだそうですね。それが、御主人が今、九大の方に入院しておられた。もう、ずいぶん長く入院しておられます。(      )息子と二人暮らし。もう、(外には?)寂しゅうて、まあ、不安でたまらんのですよね。昨日、今日ここに来てお届けされるんですよ。先生、今日、明善校に行っとります息子が、お母さん、この頃いっちょん悔やまんごとなったねっち。僕も金光様に一つ参ろうかち、その言い出しましたと、こう言うんですよ。ほんに、そう言われてみりゃ、お母さんこの頃いっちょん悔やまんね。
 本当に信心の有り難いということは、おかげちゅうのはこの事じゃろうと改めて気が付きましたと言うてから、今日お届けしております。ね。そういう、主人が病気をして、本当に不安でたまらんのですよ。けれども、お参りさせて頂いて、今まであんなに悔やみを持った自分が、息子が気が付くぐらいに悔やまんで済む自分になっておることに気が付いた。もう、最近なもう、毎日お参りさせてもらうことが楽しい。
 もう、朝の御祈念が終わってからですから、必ずテープを頂いて帰られますが、もう、それが楽しみ。いつの間にか自分が悔やまんで済む自分になっておった。ね。そういうおかげを頂きながらです、また、こと何でもない時にはそうですけれども、何かという時でもです、ね、驚かんで済むというか、本当に、苦労に苦労が重なるといった時も大事にしなければいけない、九十九という時には。
 99遍負けても、百遍に勝ちゃよかじゃんかと、今朝の先生が言われたと、こう言う。先生の声でそれを頂いた。ね。だから、99編を負け続けておるということはですね、これは、苦に苦が重なっておるということ。本当に、それこそ自分一人ではない、母親までも(なか?が?)入院したと、こう言うのである。
 ここをどう頂いて行くということがです、百遍に勝てることか。この苦に苦が重なるようなことを抜けきるおかげになって行くかということをですね、改めて、なら古賀先生の場合は分からなきゃいけないことと、こう思うのです。二月の(    )激励(        )ですね。いわゆる、ひた走るという句を作っております。ああ、素晴らしい句だと思いますよ。
 本当に、自分も強いなら、本当に変幻自在ぐらいな気持ちがあるだろうと思うんですね。子供の時から病気し続けてるのですから。もう、やっぱり憧れなんですよ。そういう、例えば憧れを持たない者はないのですけれどもです、ね、それが本当に成就のおかげを頂かせて頂くために、ね、私どもは日々、信心修行を怠っちゃならん。どんなことが起こって来ても、どっこい、ね、母親が入院した。
 本当に、自分が病気しとる方がよかというような、これは人情である、どこまでも。いやあ、神様はどげな力ば僕に下さろうとしてござるとじゃろうか、と。ますます元気が出ます。そういう境地が古賀先生の心の中に開けることが百遍目に勝てることだと、私は思う。ね。自分が苦労する方がよかち、こげなことじゃ、絶対、百遍目のおかげにならん、勝ちにはならんです。
 ね、そのことを、私は言うてやろうと、こう思うんですけれどもね。いやあ、神様が本当に、いよいよ苦に苦が重なるが、百遍目のおかげっちゃ、どげなおかげじゃろうかと、心密かに楽しめれるくらいなです、ね、信心を生き生きと自分の心の中に頂いておらなければ、百遍目に勝つことは出けん。ね。
 まあ、言うならば、救われて行くというか、助かって行く、言うなら修行するとでも申しましょうかね、様々な段階を、まあ、申しましたんですね、このように。駐在所の奥さんがね、あらあ、本当に自分なもう、悔やまんごとなっとるたい。息子が気が付くごとある。そこには、息子までも金光様に参ろうかというような働きになっておる。ね。笠さんが頂かれておる通り、ね、古賀先生が頂いておる、そういう、本当に取次者なればこそ、取次者を目指しておればこそ、神様がこういう大変な修行もさせて下さるんだけれど、それを、修行を修行と頂かずにです、苦労で頂いて、自分が苦労した方がマシていうごたる、そういう考え方ではおかげにならん。そこに神様は元気づけてござる。99編負けたっていいじゃないか、百遍目に勝て、と。だから、ここをどう、この人が残って行くかなのである。ね。
 なるほど、その通りの何とか句で言うおる、それじゃ自分じゃない。ね。本当に、こういう苦に苦が重なるようなことが続いておるわけ。神様はどういう風に下さるつもりじゃろうか、と。ね。これによって、どういう力を自分に与えようとしてござるじゃろうか。ね。それは苦しいことではある事ですけれども、自分の心の底にはです、それこそ、神様の心を思うたら、ニヤッとするような元気が出らなければ、百遍目に勝つことが出来ません。どうぞ。